夢憂病

毎日、何かしら手遊びに文を書いているものの昨日は特に書きたいネタもなかったので見た風景を成るだけ写実的に文章に表現する練習をした。絵画で言うところの素描である。風景という漠然さにお題を決めあぐねたものの、紆余曲折のうち日常の風景が相応しいと考え記念すべき初のお題は「無人駅」に決まった。

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この風景を2通り描いてみた。

無人駅①】

山中にあるプラットフォームは斜陽に晒されていた。

ひび割れたコンクリートの隙間からぺんぺん草がまばらに生えている。

雨風に腐食された屋根に垂れ下がった拡声器は沈黙を守ったままである。

赤みがかった砂利道に直線がただ4本伸びている。

低木の枝垂れる山肌を半円にくり抜かれたトンネルは途切れながらも宵闇に濃密を加えた。

無人駅②】

山中にあるコンクリート造りのプラットフォームには陽光が照り返していた。

山の脇にある錆びかかったオンボロの屋根にはだんまりを決め込んだ拡声器がぶら下がっている。

赤みがかった砂利道に直線がただ4本伸びており、

草木が乗っかった半円のトンネルはまばらに途切れて光と陰が交互にコントラストを描いている。

最初に①を書いて、その後修正したものが②だ。

同じ風景を描いているが、二つの文脈の雰囲気はおよそ真反対なものであろう。①は閑散とした薄暮の荒廃した無人駅が描かれていて、②は少し明るく軽い、夏の昼下がりと言った感じだ。平易な言葉を織り交ぜているのでややコミカルに受け取れるだろう。

この試作の問題は、まず書き起こした①が画像にそぐわない憂鬱な表現となってしまった点である。画像ののどかな無人駅の風景はやや閑散としてノスタルジックな雰囲気を醸しているものの、必要以上におどろおどろしい描写上塗りするのは些か好ましくない。

写実的な文章を書く上で、本意と異なる余計な描写は避けるべきだ。

兎角暗くなりがちなのは潛在的に頭に憂鬱を抱えているのか、とも思ったがそこまで悲劇的な人生を送ってきたわけでもない。これからも手を焼くであろう原因不明の痼疾と向き合いつつ、拙作を続けていきたい。

先日の反省

ありがたいことに少数人ながら先日書いた小説を読んでもらえ、更にその中には批評をしてくれる友人もいた。

いくら客観視しようと努めても自分の作ったものである以上、主観から離れることは出来ないのでこう言った客観的な批評は大変嬉しく思う。

今日は初めて書いた小説の反省というか、彼の批評に対する言い訳をしようと思う。

まず、投稿するときのタイトルに「習作の小説『鶺鴒』」と書いたが、この「習作」という言葉を早速見抜かれてしまった。

これは「数ある名著と肩を並べて小説と言い張ることは到底出来ない」という謙虚を示すために添えたが、同時に「これはあくまで練習がてら製作したものなのでこれを自分の集大成だとは思わないでほしい」という姑息な予防線を張るためでもあった。

もちろん私の拙い文力で今後とも一大叙事詩が書き上げられようなどとは全く思わないが、この矛盾を見抜かれたような気がしてすこし冷や汗が出た。

内容に関しての反省をする。この試作は一目瞭然、短編小説を意図して書いたので冗長を恐れ不必要な表現を切り捨てた。しかし必要以上に切り捨ててしまったので終盤に不自然なほどせかせかとした展開になってしまったように思う。

加えてこの試作は写実主義自然主義に触発されて書かれたものであり、出来るだけ五感の表現をありのままに伝えようとした。そのため語彙が誇大になったり文語的なものになってしまった。

この語彙によって、読み手により深い知覚を促すために、持って回った表現をすることで知覚を遅らせる技法、すなわち「異化」が知らず識らずのうちに引き起こされてしまった。

この二つの失敗によって展開が目まぐるしく進み、なおかつありのままの語彙を当てはめようとし過ぎたために二次的な「異化」の効果が意図せず乱用され、文章全体に「待った」がかかっていた。

結果、ブレーキをかけたままフルスロットルで走る車のような暴走が生まれてしまった。この奇妙な暴走を的確に指摘されてしまったのは実に耳が痛いことだ。いや、文章だったので目が痛いか。

今後は反省を活かして「習作」という補助輪に頼りつつぼちぼち書いていきたいと思う。

習作の小説 『鶺鴒』 その三

亜里沙は急いで森を出た。来た道を走って戻る。三叉路を曲がって自宅のマンションへ。そしてエレベーターも使わず階段を駆け上がる。運動を得意としない亜里沙の体はとうに悲鳴を上げている。心臓は狂ったように波打つ。咽からは血の腥い塊が押して来る。自室のある六階を超えた。しかし肉体の疲労に気づかない程亜里沙は急いている。只ひたすらに上へ昇る。そうして屋上に出た。

風が髪を靡かせる。苦しみ喘ぐ身体を引き摺って眼下の眺めを見下ろす。あんなに憎らしかった電線が遥か下にある。亜里沙は引き攣った顔を崩して歪な笑みを浮かべた。

私も自由になろう。絶望に満ちた私の唯一の欲求は遂に甘美な死の中にしか存在し得ぬことを悟ってしまった。

手摺を越えて私は飛んだ。風を切るその一瞬は私の惨めな心を永遠に慰めた。

習作の小説 『鶺鴒』その二

〈ニ〉

不意に喧騒な街を歩く亜里沙の耳に木立が風に吹かれて擦れる音が聞こえた。見上げると重機に食いつぶされた都市開発の残滓とも呼べる森が小島のようにぽつんと浮かんでいる。

亜里沙はそこが予ての目的地であったかのように自然と歩を向けた。立ち入り禁止の札がかけてあるタイガーロープを跨ぎ、奥へは入った。

木々の中は森閑として小川の滔々と流れる音だけが幽かに静寂に染みている。亜里沙はスカートに土がつくのも厭わずその神域に腰を下ろした。雲間からわずかに届く光が木漏れ日となりぼんやり地面に怪しい模様をつくってい、幻惑的な空間が亜里沙の周りを包んでいる。

暫くそこに佇んでいるとどこからか白と黒の鮮やかな鶺鴒が飛んで来て彼女の前の清流に足を浸した。その明かな姿は暗がりの中でも映え、何者にも侵し難い神々しさを帯びていた。

細い足で水を掻き頭を垂れて長い尾を上げたかと思えば遠近を歩き廻る。亜里沙はその奔放なワルツを永遠に眺めていたかのように思われた。(或いは一瞬であったかもしれない)

美しい鶺鴒は来た時と同じようにどこかへ飛び去って行った。そして亜里沙は一つの決意を心に認めた。飛ばねばならぬ。

習作の小説 『鶺鴒』その一

『鶺鴒』

〈一〉

霙のような重い憂鬱が亜里沙の心を覆っていた。それは今に始まったものではなく、慢性的な事であったが今日はとりわけ酷い。

亜里沙は一つ溜息をつき、平生の通り制服の黒いスカートを履き、くたびれた白のブラウスに袖を通し家を後にした。

マンションの正面玄関を出て空を見上げると都市の排気と混ざって汚く淀んだ曇天に電線が二つ掛かっている。亜里沙は小さい時分から豁然たる空を区切るように出しゃばる電線が嫌いだった。

それはどこか亜里沙を無限に広がる空から捕らえて地面に押さえつけてやろうとする悪意に満ちたものであるかのように思え、被害妄想染みた亜里沙の心を苛んだ。

そうした陰惨から逃れる為か、それとも只同級生を避ける為か亜里沙は普段は右に曲がる三叉路を左へ曲がった。

しかし違う道には入ったからといっても重苦しいビルが林立する大阪の街並みが変わるわけでも無く、どこかで見たようなサラリーマンの群れが欠伸混じりにのろのろと往来する道を、亜里沙もまた蝋人形のような顔を下に向け浮き草のように漂うのだった。

年の瀬

書きたいことは山ほどあるが資料不足であったり文の表現力がないばかりに、下書きのまま転がっているものがいくつもあって歯痒い思いをしている。

大掃除をした。

長く開けなかった抽斗の中身などゴミは必然的に以前のものが多くなる。

旅行の思い出の品やとりとめのない落書きを見て朗らかな気持ちになる一方で、忘れたいものを見せられてやや気が滅入った。

「歳神様を迎える際、部屋を綺麗にしてもてなす」というのが年末に大掃除をする通説だ。

しかしその年を振り返って、過去の陰惨な思い出を清算し新たな気持ちで年明けを迎えるということも意義のひとつであるように感じられる。

来年は良いものになるようただ願うばかりだ。